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たけしの紅白での「浅草キッド」熱唱が人々の胸を打った理由

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1: 砂漠のマスカレード ★ 2020/01/02(木) 12:20:21.90 ID:F1YRkm369

昨年の大みそか午後10時8分。昭和、平成、令和の3時代をトップランナーとして駆け抜けてきたお笑い界の超大物が初めて1人の歌手として、NHKホールのステージに立った。

舞台は令和最初の「第70回NHK紅白歌合戦」。タレント・ビートたけし(72)は映画監督としての代名詞「キタノ・ブルー」
に酷似した暗青色のセットの前に着段着に見えるラフなセーター姿で立つと、2度、ぺこりと頭を下げた。

右手にマイクを握って歌ったのは1972年、明大工学部を中退(除籍)して飛び込んだ東京・浅草のフランス座での下積み時代を丁寧に曲にした
自身作詞・作曲の「浅草キッド」(86年リリース)。時間にして4分間。アコースティックギターだけの伴奏を背に、
たけしは最大の特徴である、かすれ気味の、でも、とても味のある声で切ないバラードを歌い上げた。

「お前と会った仲見世の煮込みしかないくじら屋で―」

「いつかうれる(売れる)と信じてた」

「同じ背広を初めて買って」

「夢は捨てたと言わないで 他に道なき2人なのに」

描かれているのは、浅草時代の極貧生活と88年刊行の自伝的小説「浅草キッド」に芸名「マーキー」こと牧口正樹という名前で登場するフランス座の後輩男性との濃密な関係だ。

お笑い界での成功を夢見て漫才コンビを組んだものの、マーキーは「天才・たけし」との圧倒的な力量差に打ちのめされ、精神を病む。
ついには自殺未遂を図り、引退に追い込まれる。
そんなマーキーが見舞いに行ったたけしに病室で言い放ったと言われるのが、「夢は捨てた」という一言なのだ。

歌唱前に収録されたVTRでも「浅草キッド」について、「ツービートという漫才師が(世に)出るために何組の漫才師がダメになったかも分かるし、
自分がある程度、売れた時に作った歌。
同じ時期に同じような生活をして、一緒にお酒を飲んだり騒いでいたのに、何でコイツが落ち込んで自分が売れたということには罪悪感がある」と率直に語った、たけし。

マーキーとの別離後、たけしはビートきよし(70)に誘われ、ツービートを結成。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」、「寝る前にちゃんと締めよう、親の首」などの毒ガス漫才で一気にブレークを果たす。

しかし、お笑い界のトップに登り詰めていく過程では、マーキーのような“ボタンの掛け違い”でスターになり損なった仲間だけでなく、芸人だけでは食べていけず会社員になったが、
83年、自宅アパートの火災で焼死してしまう師匠・深見千三郎さんら数々の悲劇的な存在があった。

たけしの口にした「罪悪感」という言葉の裏には、そうした浅草時代の悲しい思い出の数々と自分が浮かび上がる過程で“踏み台”にして行った人々の存在が確かに横たわっている。
少なくとも映画監督・北野武としてもベネチア映画祭グランプリに輝くなどの成功の過程を番記者として追いかけ続けてきた私は、たけしがそうした考え方をする人だと言うことが分かる。

間違いなく、そうした「自分だけが売れた」という慚愧(ざんき=恥じること)の念を胸に歌っただろう、たけしの熱唱は現在のお笑い界のトップランナーたちのハートも直撃した。

紅白の総合司会を務めた内村光良(55)は曲紹介の際、涙声で「俺もデビューの時、(相方の南原清隆と)2人で背広を買いに行って。そういう歌詞がいっぱいあって。やばいです。この歌は…」と涙声で話した。
たけしの歌唱の際、カメラで表情を抜かれた審査員の「サンドウィッチマン」伊達みきお(45)は明らかに涙をぬぐっていた。

https://news.livedoor.com/article/detail/17610370/
2020年1月2日 11時0分 スポーツ報知

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